2008年11月29日土曜日

籠字とり

上手い人は、筆を持ち気持ちに任せさらさらと書いているように見えます。当に筆で書くと言うことの醍醐味もそこにあるといって過言ではありません。
しかし、このさらさらということが、そう容易には行かないものです。心にわだかまり無く筆を運ぶには、既に書こうとするイメージが具体的に頭の中に描けていないと出来ないものです。
たった一本の線にしても、引くだけは引けるでしょうが、それだけです。何の意味もありません。一本の線にも打ち込みがあり太さふくらみ遅速緩急勢い等々、複雑な要素があります。
先人の書を臨書して思うことは、没入したいと言うことです。対象に浸りきり、まるでその書者になったかのように書けたらどんないいかと常々思います。何を考えどう書こうとしたのか、役者になったかのように振る舞います。
そこに至るには、詳細に観察を続けなければなりませんが、私は若い頃よく、籠字というものを取っていました。トレーシングペーパーなどで詳細に、石のかけ一つ見逃さずに形を追っていったものです。
すると、眼の印象とは違った一面も現れ、はっとさせられることもしばしばでした。御物でもある王羲之の乱帖などは、双鉤塡墨という手法で作られた、真を乱すほど精巧に模写された神品といえるものです。この双鉤という手法が平たく言えば籠字です。
高校の授業で学生にこの籠字を取らせている時、ある生徒が、石がかけたところと残っている線の区別がつくようになったと言ってきたときにはびっくりしました。
見ると確かに解って籠字を取っているのでした。筆順や方向を無視して書かれているものとは全く異なり、まさに私の教えたかったことを生徒自らが実践し獲得し得たと喜んだものです。
臨書で言えば、見えているようにしか書けないし、また、書かれているようにしか見えていないと言うことです。
眼を鍛え、手を鍛え、心を鍛え、想いを紡いで自在に表現する。そんな世界にともに遊べたらどんなにか幸せだろうと思う日々です。

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