甘い物が好き、辛い物が好きといった個人差です。それぞれ、どちらが良いといったたぐいのものではなく、上下の別もありません。
好みには、風土色とでもいうべきものが存在します。中国の南船北馬、北峻南媚などと比較対照され、対語的に用いられています。
気候風土に強く影響されたもので、環境が厳しければ強い刺激を好み、環境が穏やかになれば柔らかい刺激に好感を抱くようになるようです。
日本の書にもこの影響は強く表れています。
おおきくは、中国の一筆一画ゆるがせにしない構造的な書に対し、日本の書は瞬間的に感覚を繋ぎ止めるような情的なものに流れやすいようです。
現代の書を見ても、北は峻険で重厚な書が好まれ西は優美なものが好まれているようです。
このように好みというものは致し方がありません。自己の表現に書というものを選択したのであれば、その技術の習得に精を出すのはごく自然なことです。
この表現の核となるのは、自己そのものであり想いです。
その想いを具現化する手だてが技術ということです。
いうまでもなく書は視覚芸術ですから、技術によって想いを表現しなければなりません。
限られた空間、たとえば半紙がよいでしょう。ここに一つの丸を書くとします。
この丸は丸であれば良いのです。四角であってはいけません。かといって、正円でなくても良いのです。要するに角がなければ丸という範疇に入ります。
では、大きな丸を書きたいと思ったとしましょう。さて、どのくらいの大きな丸が書けたでしょうか?
先ほど楕円のようなものでも丸は丸といいましたが、第1の技術はここにあります。
たとえばより正円に近い丸が書けるかどうかです。
イメージした形を思い通りに書ける力が、一つめの技術です。
しかし、この技術は単に筆遣いが上手いということに過ぎません。
では、本当の技術といえるのは、どのようなことを指すのでしょうか?
一例を挙げてみましょう。
あなたが書いた丸を更に大きく見せるには、その隣により小さな丸を書き添えてみてください。
あなたが書いた丸は先ほどより大きく見えるはずです。確かな証人がその丸のそばに書き添えられたからです。
他に方法はないでしょうか?
丸の中の面積と半紙の面積から丸を引いた面積、つまり、余白とを比べてみてください。
もし、あなたの書いた丸の面積が余白より小さいとしたならば、その丸は大きいとは認められません。
正方形の対角を斜線で結び、それぞれの面積を比べます。すると直線の場合等分され、その差は生じませんが、多少湾曲させるとどちらかが広くなります。その広くなった方が内側と見るならば大きくなり、外側(余白)が広くなれば小さくなります。
このような分割方法を身につけることで、書的な思考が可能となります。
さて、もう一つ例を挙げるならば、更に大きく丸を書いて半紙からはみ出させてみましょう。溢れるほどの大きさが書けたことでしょう。
この例に見るように、書というものには思考の技術というものが欠かせません。
あらゆる表現に作者の視点といったものが要求される、非常に神経を使う物なのです。その作者の視点や神経を共有することが書を鑑賞することということに他なりません。