2008年11月29日土曜日

見・観・察

書を志して書美の探求を始めるには、先人の書を渉猟するところから始めるのが常です。見て書いて見て書いてを果てしなく繰り返すことで、見ることの意味がだんだんに解かり始めてきます。

学生時代からそれを繰り返してきた結果、それなりに上手くなり、それなりに解ったような気にもなっていましたが、心のどこかに何も解っていない自分がいることも自覚していました。
それなりに工夫もし、知識も仕入れ、それなりの作品も書けているつもりでした。しかし、絶対の自信というものはありませんでした。

先輩に篆刻の上手な人がいて、作品もそれなりに上手だなと思っていました。
その先輩が印の仕上げに印刀で印面を叩いていたときに、何で叩くの?と問いかけたら、その先輩は古色をつけるんだと答えました。感覚ではわかる気がしましたが、これは偽物だと、心の中で思ったものでした。
気分なのです。何となくそうしているという風にしか、私の心には届きませんでした。

これでいいのか?これでいいのか?という自問の中、疑問を抱き続ける日々が続きます。そんな中で、青山杉雨先生の著作の冒頭に、詩は志也。という一文に出会いました。
青山先生は、その古出の文を詳しく説明していました。詩書畫一致は東洋の理想であり、書もまた志を表すものだ。志とは表現である。といった要旨だったと記憶しています。
上手く書いたり、こねくったりすることは技術には違いないが、その根本にある自分というものは薄いような気がし、もどかしく思っていた自分にとっては、重要な指針となる一文でした。
更に模索を続けてはいましたが、自信がもてません。そんなとき関正人先生との出会いがありました。
福島で開催された先生の講習会に出席した折り、先生から作品を送ってくるようにとの、信じられないお誘いがあったのです。今思えば、篆刻とも言えないような作品でしたが、先生は懇切丁寧に通信で指導してくださり、作品を持って上京してきなさいとのお誘いがありました。
当時県立須賀川高校で教鞭を執っていた自分は喜び勇んで上京し教えを受けました。印は良くできて当たり前、押印と側鑑は田舎にいては解らんと、高田馬場のお稽古場に招き入れていただき、終日ご指導を受けたものです。
書を志して10年間技術を追求し疑問を懐に牛歩の歩みを続けていた自分にとって、生涯忘れ得ぬ一日を得ることになりました。先生は呉倉石の印を示されルーペで印面を観察するように言われ、惜しげもなく貴重な蔵印を眼前に示されました。次に3寸角の拙作をばれんを用いて眼前にて押印してくだされ、乾くまでと、外に飲食を共にと仰っていただきました。
酒食を傾ける間に、様々なお話をいただきましたが、漢の時代の古銅印の一つである軍司馬印を示され、軍の右側の縦画が曲がっていることを、"須釜さん、これはね、やっているんだよ"と仰られたのでした。
この言葉に打ち震え、私にとって生涯忘れ得ぬ言葉となりました。それまでの疑問、謎、もやもや、それらのものが胡散霧消、かき消えていくような、当に旱天に慈雨と呼ぶにふさわしい金言となったのです。
それは私が長い時間をかけて暖めてきた疑問があって、初めて私にだけ解る感覚だったのだと思います。この一時を境に単に筆使いの上手い人から自分で考え創作する道への歩みを始めることが出来、今日に至っています。

人はぼ~っと眺めて、眼を止めて見て、興味を持って観察し、分析し、何故と考え洞察する。人の意識レベルで見るという行為も変化していくと言うことを伝えたくて、見・観・察と言っていりますが、これは正見ということで、先生は私に正格の道を指し示されたのです。
正見・正格そして自我、更には素養と深遠な書の世界を垣間見させていただいた一時でした。先生は常に自分が考えていないことを指摘するものです。自分も先生の前に出ると恥ずかしくて居たたまれない気持ちにもなります。しかし、先生は私の前で、先生の目指す世界を指し示してくれているのです。私は何年も何十年かかっても、解るまで考え続けて行くのだと思います。

”まいった”

素養ということが出てきましたが、正直これには参りました。それは今の時点では目指す話ではなく、備わっているものということだからです。否、それまでに備えたもの、身についていると言うことだから一朝一夕に、はいこれですとは言えるものではありません。全人的な知識・教養・感覚・理念の積み重ねが人を造り、よって来たるところの作品と呼べるものへとなっていくのだと、今は理解しています。

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